「…ん?」
燭台の明かりの下、セントは目を開けた。どうやらウトウトしていたらしい。
「俺としたことが…」
ぼそりと呟いて立ち上がり、伸びをする。それから水差しの冷水を喉に流し込んで一息ついた。
再び机に向かい…
「…。」
外からの笛の音。微かな疑問の答えを出すべく、バルコニーへ出て音のする方向を見下ろした。
…予想通りだ。池の真ん中にある三日月型の石像の上。その上がナイラのお気に入りの場所だ。
三日月はバルセロス家のシンボル。その上に座る次期当主というのは、何だか象徴的だった。
今夜は半月。月光の中で笛を吹く姿はまるで一枚の絵だ。あぁやって楽器を演奏し、普通に成長して、ありふれた恋だの何だのをしていられるのが幸せというものだろうな…そんな思いが胸を横切り、レアルは少し気が重くなった。
ナイラはこれからバルセロス家の爵位を継ぎ、主教となる。
…しかも乙女宮の。
この国には三つの神殿があるが、愛と芸術を司る女神マリエルを祭る乙女宮は、他の二つとは大きく制度が異なる部分がある。それは、主教になるときの契約だ。乙女宮の儀式では、次の者が神と契約をして主教となる。そこまでは他の神殿との違いはないが、違うのはこの先だ。契約の際、乙女宮の主教はマリエルに心を半分差し出す。これは他の神殿のような心の共有ではない。
献上だ。
マリエルは嫉妬深い。自分以外の者に心を捧げるのを許さない。だから、乙女宮の主教は結婚出来ないのだ。
その代わり、与えられるのは不老の身体。レアルもそうだ。外見こそ青年だが、実際にはもう四半世紀もこの姿で過ごしている。
「俺ももう年だよな…」
苦笑しつつ夜空を仰ぎ、再び噴水に目を向ける。そこでは相変わらずナイラが笛を吹いていた。さっきと違うのは音だけだ。
「俺の作品…か。」
レアルは一人で思いを馳せる。
ナイラは自分が親戚から貰って育てた子供だ。世話係のルピーも一緒に。
ナイラに両親はいない。物心がつくかつかないかの頃に殺されたのだ。
そんな不憫さもあったのか、沢山の養子の候補の中からナイラを選んでいた。
いや、それだけではないのだが…
幼いナイラ引き取って一緒に過ごすうち、いつしか自分を本当の親だと思っていたらしい。
…この神殿の仕組みを知るまでは。
でも、ナイラは強い子供だった。今では、全てを理解した上で自分を父と言う。
損得抜きで誰かに信頼されるのは、正直嬉しい。友人には家族や家という守るものがある。その上に友情があるのだ。
しかし、子供から得られる信頼は無条件だから。自分が守ってやる立場なのだ。
領地の民とも少し違う、絶対の繋がりだから。
とにかく、それでも主教を育て上げるからには自分と同じ苦しみを味わわせたくない…それを信条として育ててきた。
必要以上に人を愛しく思わないように。



主教は、自分だけが変わらないのだ。
周囲の人々も、環境も変化をするのに、自分だけが…。時の輪から外され、取り残されるのはたった一人…果ての無い孤独の中で達した結論は、人を愛さず変化しないものを信じること。不変のもの…それは神だ。
思い知らされた。
自分の拠はマリエルしかないのだと。
これは呪縛だ…とレアルは思う。そして自分はあがきながら、その呪縛からは逃れられない。
誰かを犠牲にしない限り…その犠牲が自分に最も近しい者だとは…。
「…すまない…」
独り言が、夜風に掠われた。
「レアル様。」
軽く扉が叩かれ、ルピーが入ってきた。
「ミルクをお持ちしました。」
「あぁ…もらおうか。」
そう言って部屋に戻り、机の上に置かれたカップをとる。
「…本当に、ナイラ様の前から姿を消されるおつもりですか?」
静かな声。
「…いずれはな。俺と同じような思いはさせたくないし。まぁ、可愛い息子のためだ。」
おどけて肩をすくめるセント。
「寂しくなります。」
「俺がいなくて?」
「はい。」
「お前がか?」
「私も…ナイラ様も。」
悲しそうなルピーをレアルは見つめた。
「そうか。」
レアルは窓の前から手招きをしてルピーを近寄らせた。
「見てみろよ。」
ナイラの方に顎をしゃくる。一曲終わったらしく、譜面をパラパラめくっている。
「綺麗ですね。」
ルピーが微笑んだ。
静かな笛の音…。吹きたいものが決まったらしい。
「な?あいつが苦しみ続けるなんて可哀相じゃないか。だったら、一時の悲しみで済む方がいい。」
笛の音が響く。
「…。」
ルピーは顔を伏せた。
「何だ、そんなに俺がいなくなるのが嫌か。」
伏せられた横顔を覗き込む。
「だったら…残ってもいい。」
優雅な笛の音…
「本当ですか?」
伏せていた顔がぱっと輝く。
「お前があいつの母親になるなら。」
レアルは耳元で囁いた。
「…え?」
ルピーは硬直した。そしてそれはすぐに動揺に変わる。
「お、お戯れを…貴方と私では身分が…」
「そんなもの関係ない。正式にあいつが爵位を継いだら俺は公爵じゃなくなる。年もとるぜ?まぁ、外見もお前より少し上だから見た目も不釣り合いじゃあないし。なぁ?」
カップを持ったまま、レアルは後ろからルピーの身体に腕を回した。
「で、でも…それは…その…色々と問題があったり…。」
「何もない。あるとすれば、お前の気持ちの問題だ。」
「貴方は…私を娘だと言いました。」
「だから?掟なんて少しくらい捩曲げてもいい。お前は…イイ女に育った。」
いつもと違う低い声。
まさか…まさか…
「…困ります…。」
ルピーは真っ赤になって肩をすくめた。
「だろ?」
ニヤリと笑ってレアルはルピーから離れた。
「結局そういう事なんだよ。」
「…試しましたね…!」
一瞬でも本気にした自分をルピーは恥ずかしく思った。
前々から悪ふざけが好きな人間なのは知っていたが…それなのに一瞬でも本気にした自分が馬鹿みたいだった。
「ま、今は気楽にしてな。気の使い過ぎは身体に良くないぞ。」
ニィッとレアルが嬉しそうに笑った。
…まただ。こんなに嬉しそうな顔をされると気が削がれる。…いつだってそうなんだ、この人は…。
「…失礼します。」
それでも多少、憮然としてルピーは部屋から出て行った。





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