その夜、レアルの部屋には訪問者があった。
「…。」
扉が開くと同時に部屋の主は無言で頭を深く垂れ、客を迎え入れる。
「わざわざご足労いただき…。」
「堅苦しい挨拶はいい。ここは公の場ではないのだから。」
客は笑みを浮かべ、挨拶を遮った。
「…こちらへ。」
勧められた長椅子へ、客は腰掛けた。
レアルは向かい側に座る。
「酒肴を。」
控えていた侍女が静かに部屋から出て行った。
「お疲れでしょう。」
「いや、楽しみの方が先に立っていたからな。」
楽しげに応えた客人は、この国を統べる男、エーレ5世だった。
今は忍んで来ているため、いつも金茶色の髪に飾られている飾りは外している。
利発そうな赤い瞳をした、柔らかい雰囲気を纏う青年だ。
まぁ、レアルから見れば少年だが。
「そなたが退くのは実に惜しい。」
エーレが少し淋しげに顔を伏せる。
「陛下はお優しい。」
レアルが笑う。
「私はその優しさが一番の気掛かりでございます。」
即位して間もないこの少年を残して退くのは心苦しい。だが、レアルにも事情があるのだ。
今ならまだ間に合う。情勢も安定しているし、交代するのは、今しかない。
「大丈夫だ。一人だけで無茶な決断などしたりはしない。」
「…。」
何も言えず、レアルが黙り込んだ時、扉が軽く叩かれた。
「入れ。」
その言葉と共に、侍女が入って来る。
「失礼致します。」
そして、二人の前に軽食と酒を置いた。
「準備は?」
「整っております。お呼び致しましょうか。」
「頼む。」
「かしこまりました。」
侍女が下がると、エーレは杯を口につけた。
「いよいよ会えるのだな。」
「はい。自慢の子供です。可愛らしい子です。」
「そなたが自慢とはな…期待のしがいがありそうだ。」
「えぇ。」
レアルは確信していた。一目みれば国王が虜になることを。
「姿をご覧になっても驚いてはなりませんよ。」
「気をつけよう。」
二人が笑い合っていると、扉が軽く叩かれ、開いた。
「…。」
無言で頭を垂れた人影。
白く長い裾の服を着て、半透明のベールを被っている。
これはこの家の風習なのだ。跡継ぎは、当主が交代するまではごく一部の人間にしか素顔を見せない。
「こちらへ。」
レアルが自分の隣を指した。
レアルの隣に立つ姿も優雅だった。
「さ。」
促され、深々と頭を下げる。
「ナイラと申します。」
頭を上げると、ベールが外された。
「…!」
エーレは凍り付いた。
レアルはその様子を少し面白がって見ていた。
ベールの下から現れた白い顔。青い髪に縁取られた白い顔だった。
「お目に掛かれて光栄でございます。」
それだけ言って、はにかんだ笑顔を向ける。
「あ、あぁ。」
エーレが座るように手で示すと、ストンと椅子に納まった。
「…予想以上だったな。」
心の底からの言葉だった。
ここまで美しい女性を見たことがない、とエーレは思った。
白磁のように滑らかな肌、大きな藤色の瞳。薄紅色の唇は、ミルクの上に浮かんだ花びらのようだった。
白いサークレットで留めた腰の辺りまでの長い青い髪も、清流のようにするりと流れている。
「…。」
目が離せない。
一目惚れという言葉は、この瞬間のためにあったのだ、とすら思えた。
「…名は?」
「今宵はナイラとお呼び下さい。」
女にしては低め、男にしては高めのしっとりと落ち着いた声が耳に心地良い。
「陛下、私からも紹介させていただきましょう。」
レアルが微笑んだ。
「息子のナイラでございます。」
「…!?」
エーレは言葉を失った。
「驚かれるのも無理はございません。私も初めは娘だと思っておりました。」
「父親なのにか?」
「陛下…」
レアルが喉の奥で笑う。
「お忘れですか?我が一族の当主は婚姻出来ません。」
「あぁ、すまぬ。混乱していた。」
エーレは自分の失態に溜息をつく。
そう、バルセロス家の当主は結婚出来ない。だから、親類から養子を貰うのだ。
「ナイラは…私より年が上なのだな。」
さっきからエーレはレアルばかり見ている。
「えぇ。陛下よりも一つ。」
「そうか。」
間違えてしまった手前、何だか気まずい。
一方、喋っている二人の側でナイラは自分が取り残されているような、少し寂しい気がした。
「さて。」
レアルが時計を見てポンと膝を打つ。
「私は少し用があります。しばらくお待ち下さい。」
そして立ち上がった。
「…。」
ナイラは少し不安そうな目を向けた。
レアルはそれに微笑みかける。
「チェスでもどうだ?」
「はい。陛下、チェスはお好きですか?」
「あ、あぁ。」
「陛下は強いぞ。お前で勝てるかな。」
「頑張ります。」
ナイラは微笑み、ベールを被るとチェス盤を取りに部屋から出て行った。
「少し、二人でお話下さい。」
レアルが苦笑する。
「そなた、まさか…」
「いえ、用事はあります。礼拝の時間ですから。」
「なるほど。」
レアルが出て行くのと入れ違いでナイラが入って来た。
「お待たせいたしました。」
「では、始めようか。」
「はい。」
白い手が、駒を並べて行くのを見つめていた。
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