その日の朝は、ナイラにとって特別な朝だった。明日の儀式が済んだら、自分はもうただのナイラには戻れない朝だったのだから。今朝はいつもより早起きをして、髪の毛を切った。ルピーはもったいないと言ったのだが…一応、今日は自分にとっての大きな転換期。
父に甘え、バーツに手を引かれて庭を飛び回っていた少年ナイラは、もういない。
「ちょっと長いんじゃない?」
鏡を見てルピーに不満な顔をしたが、ルピーは譲らなかった。
「長い髪の殿方は大勢いらっしゃいます。」
「そうそう。うちの天使も、お前が憧れてるルーブルだって長いじゃねーか。」
ルーブルというのは勝利宮神殿の主教であり、また聖騎士隊の隊長だ。
聖騎士というのは飛竜を扱う騎士のことであり、最も入隊が難しい部隊である。ナイラにとって、ルーブルは文武両道の鑑だ。
そんなことを引き合いに出すところを見ると、セントもナイラが髪を切るのには反対なようだった。
「二人共間違っても女には見えねーだろ?」
「僕はこんな顔なんだから仕方ないでしょ?この国には髪の短い男はいても、髪の短い女はいないんだよ?」
ナイラの不満ももっともだったが、やはりセントとルピーには勝てなかった。
結局、腰よりも長かった髪は背中にかかるくらいまで短くなって決着がついた。
「明日の準備は万端です。」
片付けながらルピーが微笑む。
「やっぱり緊張するね。人が大勢いるんでしょ?」
ナイラの顔も少々不安そうだ。
考えてみれば大勢の人の前に立つなんて、世間に内緒で通っていた手習いの学校以来だった。
「問題無い。笑いながらお辞儀したり手を振ったりすりゃあいい。あとは、国王の前で誓いの文書を読めばいいんだよ。覚えてるだろ?」
「そりゃね。あれだけ毎日読まされたら口が勝手に動くって。」
ナイラはため息まじりに呟いた。
「明日は?陛下に挨拶に行って?パレードだっけ?」
ハッキリ言って憂鬱だ。上手く笑える自信がない。転んだりしたら最悪だ。
「まぁ、笑え。乙女宮の主教は代々美形で有名なんだ。笑顔さえあれば乗り切れるさ。」
セントの意見はいつも無謀。
「大体ね…」
短くなった髪をいじりながらナイラは鏡を覗き込む。
「陛下と並ぶのも嫌だ。」
粗相があるだの無いだの、行儀がどうだの…。親しみやすい人だとは思ったが、公の顔と個人的な顔は別ものだろう。
「そうそう文句を言うな。これは仕事なんだぞ?嫌なことだってわんさかあるに決まってる。城に上がってみろよ。好奇の目と嫉妬の目に晒されるんだ。特にお前はな。」
「…特にって、どういうこと?」
「さっきも言ったように乙女宮の主教は代々美形なんだ。しかし俺が思うに…お前はその中でも特別だ。男だろうが女だろうがお前を見たら目で追わずにはいられないはず。血のせいなのかもしれないが…お前は特に美しい容姿に恵まれた。」
「うん…?」
「自分が綺麗だということを自覚しとけ。迂闊な行動を起こしたら決闘が始まってもおかしくはない。陰謀によって、美しさ故に命を落としたご婦人も世の中には沢山いるんだ。」
「ご婦人って…。」
まぁ、セントの言いたいことは大体わかった。とにかく、家の外…いや、家族外には危険がいっぱいだ。巣立つということは、何て苦しいことなのだろう?大人になんか、なりたくはないのに。
「師匠は、主教になるときこうなりたいっていう理想はあった?」
「理想ねぇ…あるにはあったが…。」
セントは天井を仰ぎ、少しして頷いた。
「理想と現実は一致しないもんさ。だからヒトは夢を描く。」
「…うん。」
何とか頷いたが、この言葉の真意は、今のナイラにはよく解らなかった。
「神経を研ぎ澄ませ。安心していいのは部屋に戻ったときだけだ。」
「……。」
「そんなに不安そうな顔するなよ。危険も増えるけどイイコトだってあるんだ。」
「そうだ…ね。」
せいぜい楽しもう。籠から出た鳥は空へ羽ばたけるんだから。
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