「バルセロス公。」
「はい。」
控えの間でくつろいでいたところで声をかけられ、ナイラは顔を少し引き締めて手にしていたティーカップを降ろした。
「疲れてはいないか?」
「勿体ないお言葉です。」
立ち上がって頭を下げようとすると、
「よいのだ。そのまま。」
と制された。
「長いようで短い一日であったな。」
ナイラのはす向かいに腰を降ろし、エーレは窓の外の暗くなった空を見た。
「そうですね。」
ナイラも釣られて外を見る。
城下街の明かりがいつもよりキラキラと輝いている。
昔から祭の夜は大好きだ。今も、実は出歩きたくて仕方ない。昔はレアルにこっそり連れ出してもらい、夜店でりんご飴を買ってもらったりしたものだ。
「陛下は屋台のものを召し上がったことはありますか?」
突然の問いにエーレは戸惑った。
「いや…無いな。街を歩いたことはあるが。」
残念ながら幼い頃から王位に就いていたのでお目付け役がいるのが当たり前になっていた。彼が買うなというものは買わないのが当然の行為だった。
「そうですか。」
目を合わせたナイラが少し意外そうな顔をしたのでエーレは意味もなく不安になった。
「皆はあるのだろうか?そなたも食べたことがあるのか?」
「えぇ。父が買ってきたお菓子を少し。」
「そうか…どんな味がするのだろうな。」
屋敷から出ることの出来なかったナイラまで食べたことがあるときいたエーレは少し凹む。
「買ってみれば良いではありませんか。」
ナイラが事もなげに言う。
「今回は陛下と私が取り仕切る祭だから忙しいのです。夏や秋の祭なら抜け出せますよ。父はよく屋台を覗いていたようなので、私もそれを楽しみにしています。」
「…そうか。そうだな。」
考えてみれば普段の祭はエーレも別に忙しくはない。
「…バルセロス公。」
「はい?」
「その、もし、夏や秋の祭で抜け出すようなことがあれば…」
そこまで言って口ごもる。
「…あ、はい。ご一緒させていただきましょう。」
「本当か?」
ナイラの返答にエーレの顔が輝く。
「勿論です。ただ…私は道がよくわからないので、精霊も一緒ですが。」
「大歓迎だ。そなたの精霊にも是非会ってみたい。」
そう言いながら、エーレは胸が弾むのをなるべく表に出さないように努めた。再び窓の外に目をやり、軽く息をつく。今、ナイラの顔を見たら挙動不振になりそうだった。ナイラを見ていると不思議な気分になる。先代のレアルは冷静な大人と同時に子供のような遊び心を持った人物だったが、ナイラは逆だ。悪戯っぽさが前面に出ている。まぁ、エーレとしてはそこが親しみやすくて喜ばしいことだったのだが。
  今、目の前にいるこの美しい公爵は、人々の視線をくぎづけにする。窓に映る街の明かりを嬉しそうに眺める横顔は、白百合と青い髪に縁取られて神秘的ですらあった。髪を切ってしまったのであの腰掛けに流れるような髪の渦は見れないが、その姿を見ることが出来た自分が得をしたような気分にさせられる。
(女性と間違われないよう切ったらしいが…利口な判断だったのだな…。)
「陛下。」
侍従の声とノック。
「なんだ?」
不意に扉を叩かれ、少し驚いた。
「そろそろ準備をお願い致します。」
「わかった。」
「もう、時間ですか…」
ナイラはそう呟いて立ち上がった。
エーレも立ち上がり、軽く息をつく。どうも人前に立つのは苦手だ。でも嫌とは言っていられない。
これは大切な務めだ。
「陛下。」
「?」
立ち上がったナイラが一歩歩み寄り、真面目な顔で深々と頭を垂れた。
「これから、よろしくお願い致します。」
「今、やらずとも…」
これから民衆の前で忠誠を誓うというのに。
「今、しておきたかったのです。形式でなく、私個人として。」
「……。」
「お嫌でしたか?」
不安な顔をするナイラに、エーレは慌てて笑いかける。
「まさか!驚いただけだ。」
「そうでしたか。」
花が咲いたような笑顔を正面から直視してしまい、思わず目を伏せる。
「…私も誠心誠意にかけてそなたや他の主教と国を治めることを誓おう。ミーティアにかけて。…行くぞ。」
マントを翻し、歩き去るエーレ。
「はい。」
後に続くナイラの口の端が少し歪んだのを、エーレは知らない。


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